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最悪な事態に如何に備えるか

2021.02.22

know-how

先日のレポートで父親が亡くなったことに少し触れたところ、いくつかのご連絡を頂きました。お気遣い頂いた皆さまありがとうございました。

さて、その中で「父親が亡くなったのに研修をしていたの?」「断れなかったの?」というご意見も数件頂きました。

そうですよね、普通そういう意見もあるでしょうね。実は告別式の2時間後にも別なセミナーをリモートでやっていたなんて言うと怒られそうです。。。
今回書くことは、いつもと少し違う内容かもしれませんが、人に話すと「参考になった」と言われることも多いので文書にしてみます。


僕は幼少期親父のことが大嫌いでした。それは彼のスパルタ的な教育のあり方にあったと思います。ですから嫌いなだけでなく、恐怖の対象でした。高校性になって僕のほうが大きくなってからは、恐怖心はなくなりましたが、嫌悪感はその後も長く続きます。18歳から一人暮らしをしていましたので、年に一度里帰りをしても父親の顔を見て話したことはありませんでした。

父親との関係の最初のターニングポイントは大学3年生の時です。
友人に誘われて仕方なく行ってみた自己啓発ミナーで、BIRTHというプログラムをした際に、僕が生まれた時の嬉しそうな父親の声を聴いた気がしました。
ここで親父と向き合わないと一生今のままかもしれないと思い、すぐに親父に電話し、「帰郷するから時間を取って欲しい」と頼みこんでから、新宿発福岡行きの夜行バスに乗りました。

帰宅すると、「申し訳ないけど、僕が今から言いたいことを話すから、ただずっと黙って聞いて欲しい」と依頼しました。僕が親父に金の工面以外で何かを頼むこと自体が珍しかったと思いますし、そんなことに向き合ってくれる人だとも思っていませんでしたが、何かを感じたのか、親父は僕の 親父がどれだけ嫌いか、あの時にこんなことがありそれを憎んでいる といった話を2時間に渡って聞いてくれました。全部言い終わった時、僕の口から出たのは「それでもここまで育ててくれたこと、チャンスをくれたことを感謝している」という言葉で、泣きながら生まれて初めて親父をハグしました。

10年以上心に蓄積し続けた感情はなかなか根が深かったはずですが、この時の涙と一緒に僕は解放された気がしました。そこから親父とは何でも話せるようになりましたし、親父も僕の考え方や選択を尊重してくれるようになりました。

2つ目のターニングポイントは、母親が死にかけたことです。
僕が社会人3年目の時に、母親が祖母の何回忌かの日に親族の前でくも膜下出血を発症するという出来事がありました。当時の僕は平均で1日20時間(笑)ほど働いていた頃です。休むより仕事が楽しくて仕方なかったのですが、母親の病院に足しげく通い、まったく意識のない母親を前に「神様、まだ何も親孝行してないから一度母親を返してください」と頼みこみました。まぁそれが理由ではないのでしょうが、まったく後遺症もない状態で母親が復活したのは事実ですので、僕は神様との約束を果たすことにします。

両親を京都に招待し、人脈を使って京都の嵐山で舟を貸し切りチャーターしました。そこに料亭の方にも乗って頂き、人生初の贅沢な舟遊びをしました。
それからも2,3年に一度、1週間ほど休みをとっては両親が行きたい場所の空港で待ち合わせて、レンタカーを借り僕は運転手で彼らの行きたいところに連れて行き、やりたいことをやって遊びました。東北や北海道が多かったですが、僕が結婚をしたあとも日数は少し減りましたが今まで続けています。

僕は40歳くらいの時に、自分で「これくらいで神様との約束は果たしたかな」と自分を認めることにしました。

3つ目のターニングポイントは、5年前に兄と姉の家族も全員集めて、親父の遺言を聞く会を実施したことです。まだ、まったく健康であった親父に「元気な間に両親の終活について話を聞いておきたい」と僕が提案し、親父が了承してくれました。
兄姉と聞きたいことをリスト化し、親父も話したいことをリストにし、話を聞いた上で決まったことを遺言としてまとめました。やっておいてよかったと思ったのは、父親と母親で考え方が違うことに気づいたことでした。海に散骨して欲しいというワイルドな父親に対して、母親が「私はそれはイヤ」と言って、相談して実家近くに墓を準備しました。僕も誰も入っていないその墓まで両親と散歩したことがあります。

2年前に脳梗塞を発症し、回復したものの、少しずつ弱っていく父親を前にしても僕はあまり動揺も、不安もありませんでした。一言でいうと、父親との関係において後悔もやり残したこともないと思えていたことにあります。
いくら返しても親がくれた恩以上を返すことができませんから、僕が納得していることが大切だと思います。

ですから、今年の1月12日に末期がんが見つかり余命1か月と言われても、その気持ちはあまり変わりませんでした。
ただ、最後に親父を喜ばせてあげたいと思い、今住んでいる小平の友人で最近はNHKなどに引っ張りだこの、似顔絵セラピストの村岡さんに依頼して、両親を中心に子供や孫が囲んでいる絵を発注して描いてもらいました。脳梗塞を発症する前に家族10人で行った富士山が背景に描かれています。村岡さんは忙しいのに、仕事の合間に仕上げてくれ、父親が亡くなる2日前に届けてくれました。

もう眼も開けることも少なく、ほとんど何も食べていない親父がその絵を見た時は目を大きく開き「これはアイツか、これはあの子やな」と嬉しそうに話していたそうです。

2月2日朝7時に危篤の報がありましたが、僕は家族と相談して、翌日の神奈川県での研修を終えてから実家のある北九州に飛ぶことにしたため、親父の傍にいた姉貴とTV会議をつなぎ、意識のない親父に最後の感謝を伝えました。その30分後に親父は他界しました。


僕は自分が半身不随になったらどうするか、子供になにかあったらどうするか、など縁起でもないことを真剣に考えることがあります。どんなことでも可能性としてはあり得ます。ですから、その時に後悔しなくて良いように今できることを考えて、可能なことを実行します。

大抵の問題は心にあるように思います。
人生で100点なんて取れません。75点、4ぶんの3でいいと思っています。ですからどこかで足るを知り、今できることを丁寧に取り組むことを大切にしています。

僕をこういう人間にしてくれた一部に親父の存在もあると思います。僕はそのことを大事にしながらこれからも生きていこうと思います。

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